hiro-nakayamaの日記

日暮れまでには、まだ時間がある。

■『アメリカの友人』=この最高傑作がたまらない。

1977年に完成したこの作品が、日本公開されたのは、

10年後の1987年だ。そして90年代にLD化されて、

オレはようやく20年遅れでこの作品を観る事が出来た。

10年遅れどころか、20年遅れの、しょうもないオレの人生だ。

しかしそれから半世紀を過ぎても、

アメリカの友人』はデジタルリマスターで蘇って此処にある。

ヴィム・ヴェンダースの映画が、

時を超越して古びることはなく存在する理由のそのひとつ。

それは撮影監督ロビー・ミューラーの映像が、

映像芸術の到達点を示していると実感できる事でもある。

そして、その瞬間を生かすには、

ヴェンダースの「映画」への視点。

 「私は自分の仕事を、ストーリーを操作するというより、

  ドキュメントすることだと考えているからです。」

と当時のLDに記載されている通りのことなのである。

この映画の原作となった、

パトリシア・ハイスミスの《Ripley’s Game》。

彼女の描く小説の視点は、登場人物が、

アクションや筋の展開に追われ、ストーリーを語り始める

機能しかない普通の犯罪小説とは逆で、

ハイスミスの場合は、人物がストーリーを動かしてゆく。

すべてはそのありふれたディテールの積み重ねであり、

そのひとつひとつのディテールが、突如自分にも起こりうる。

そういうことに気付くのです。(同上)

そのまったく類型のない瞬間を、メソードとする。

だから物語を読んでいても、映画を観ていても、

その瞬間にはサスペンスがあり、

それはドキュメントなのでもある。

これこそがOZU作品でも味わってきた感動の味なのだ。

そしてこの作品には、そういうあやしげな瞬間を、

偽札造りのように捏造するワル=監督たちが、

主人公たちの周囲を固めている。

それはニコラス・レイであり、サミュエル・フラーであり、

ダニエル・シュミットであり、ジャン・ユスターシュであり、

たまらないのである。

だから「アメリカの友人」が話題となったころから、

今日に至るまで、オレの映画鑑賞の道筋、

或いはこの映画の話ではフレームであるけれど、

決まってしまった。

・・・そういうメガネで映画を観て愉しんでいる。

「メガネ」といえば、例えば荻上直子監督の『めがね』も、

オレの好みの作品だけど、此処に登場する市川実日子の、

学校の先生にしても、それはヴェンダース映画の、

『まわり道』に登場する喋らない少女の、

ナスターシャ・キンスキーの生まれ変わりなのである。