タイヤ交換の合間に立ち寄った、
レンタルビデオ店で買った3本1000円のレンタル落ちDVD。
それを観て、オレはまったく新たな時代の胎動を知った。
トルコのヌリ・ビルゲ・ジュライン監督の大傑作、
『読まれなかった小説』(2018)は、映画のニューワールドオーダーなのだ。
とはいえジュライン監督は1959年生まれだから、既に65歳。
21世紀に入って世界は注目していた事すら、オレは知らなかった。
特に『雪の轍』(2014)ではカンヌ映画祭パルム・ドールを始め、
世界中で93の映画賞に輝いたというのも、当然であろう。
オレはこのように無知だから、映画賞とかはどうでもいいのだが、
遅れている老人だけど、いいものは10年遅れても届く。
オリンピック・アカデミー賞・ノーベルショウ。等々ははるか以前からオレは、
八百長感溢れるイヴェントと見下していた。
TVで云えばNHKは、そのヤラセ実績が半世紀の長きにわたり、
コクミンを誘導して洗脳してきた。
同様にオリンピックは、何故訳の分からない種目が増えてゆくのか。
それはアメリカ覇権の為に、審判員のいる種目ばかりを増やして、
支配する事に都合がいいスポーツの祭典だからだ。
アカデミー賞もノーベルショウも同様だ。
何故ハルキは当て馬であったのか。そこには不都合な真実が潜んでいる。
そしてカズオが文学賞を受賞すれば、
即ハラリの新作をヨイショする為に動員されてゆく。
こういう利権繋がりは、教育上まことによろしくない。まさに亡国の論理なのだ。
だからオレは、ほとんどハリウッド映画も見下しているけれど、
リベラルに組する業界の批評家様は、その価値観が乗り移ってしまい、
上から目線のママに世界をみて、
世界の審判員になったつもりでじつは利用されてゆく。
つまりこういう、転移するガン細胞のような、
新自由主義的な覇権文明の限界も露呈されて、
映画も消えてゆき、死んでゆくのかと、
オレはギリシャのテオ・アンゲロプロスや、ポルトガルのマヌエル・オリヴェイラ、
そしてフランスのジャン=リュック・ゴダールを悲しみの中で、見送ってきた。
しかし、どっこい。映画は生きていた。
ジュラインの『読まれなかった小説』は、
そういうパラダイムシフトからまったく自由な世界の風景の中で、人々は会話し、
けっして同調圧に汚染されない。
美しい風景の映像とその豊かなセリフは、
映画が人に寄り添うものである事を改めて実感させてくれる。
だから世界は感動する。世の中は捨てたものではない。
生きていてよかった。
と世界中が、ヌリ・ビルゲ・ジュライン監督に感動しているのであろう。
しかしそういう認識に辿り着かない人々は、
そのまま『皆様ごきげんよう』(イオセリアーニ)と、
NHKと共に去りぬ。それもキビシイ現実だ。
そしてそういう事を自問・自省して、
深いところで内なるナチズムの暴力性の根を考察したのが、
ミヒャエル・ハネケ『白いリボン』だが、長くなるから止めるけれど、
このジェライン監督の3時間の作品は、ひとつ一つのシークエンス、
それ自体短編作品の組み合わせのように、
まるでクリムの織物のように絡み合い、丁寧に展開されてゆく。
人々の生きてゆく考え方をささえる、
文学的で哲学的で宗教的な豊かな深い台詞。
それと美しい風景が触媒となって、この作品は人々を開放してゆくのだ。
一度観てストーリーを分かったつもりになっても意味はない。
そういうハリウッド的に堕落した消費活動を越えて、
井戸の水脈を探すように、言葉の一つひとつに立ち止まり、
何度でも観なくてはならない作品なのである。