hiro-nakayamaの日記

日暮れまでには、まだ時間がある。

■ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの誕生」を思い浮かべて。

キリスト教においても、クリスマスは、 「降誕を記念する祭日」と位置づけられており、 「イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。 (wiki) イエスという存在は、脚色され宗教化し、 伝説化され集合されているから、誕生日など判る筈はな…

■朝霧の虎杖浜温泉。

目を覚ますと、海を望む窓には、朝霧が流れていた。 左手に見えるアヨロ鼻灯台も霧の中だ。 霧は流れてゆき、徐々に青空が拡がってゆく。 いいなあ。駅からクルマならひと走りで、 こんなに眺めのいい宿は、そうあるものではない。 だからオレはここへ三度お…

■生きてゆく木・朽ちてゆく木。

ハコモノの公共事業建築に巣ぐう、人気建築家の建物の、 劣化が激しいというNEWSをNETで見たが、 当然でしょう。とオレは思って、驚かないのは、 そこに馬賊政治の成り済ましの典型を感じるからだ。 オイラはヨステビトとなって、「古寺巡礼」の写真集を見て…

■銀閣寺の思い出。

金閣を観た以上、銀閣を観なければ落着かない。 それは中学の修学旅行以来なので、なんとか、 子供たちの参観を避けて行かねばならぬのであった。 そうして辿り着いた朝の銀閣には、時折春の雪が舞っていた。 北山殿・足利義満にも、東山殿・足利義政にも、 …

■私だけの十字架を探して。

《日本語の「いのり」の語源は、「生(い)+宣(の)り」 であり、「いのちの宣言」を意味する。》 なんてネットにあったけれど、 その説明には、なに言っているんだろうね。とオレには、 なんだかこじ付け感たっぷりでピンと来ない。 その「祈り」という認…

■「RECYCLE」解体されてゆく昭和。

商店街が「シャッター通り」となって、 大規模商業施設の街となって、 その駅前ショッピングセンターも、 いまは解体されてゆく。 思えば前向きに生きてきたものだけれど、 なんだかずっと、 荒野を歩いてきたような気がする。

■自由と民主主義は風船玉のようだ。

10年以上前から人々のゾンビ化を推進していた、 アメリカの民主党政治は、幾重にもカルトと合体して、 そしてメディア誘導による、人々への毒の打ち込みにより、 世界を支配するという精神異常者の思いそのままに、 世界はOZの魔法使や、不思議な国のアリス…

■佐治博士の「クリスマスレクチャー」

もう7年前の2017年12月12日。 オレはOさんに連れられて美瑛町に行った。 粉雪の舞う美瑛で、佐治晴夫博士の、 「クリスマスレクチャー」を聴きに行ったのだ。 そのときのこと、思い出している。 ・・・・・・・・・・・・ 佐治博士みずからが奏でる、 バッハ…

■百人浜の光る海。

えりも岬から庶野漁港へと15キロ続く百人浜には、 近くに牧場が点在しているだけで、人家はない。 太平洋の吹きさらしの海の中には、暗礁があって、 浜には海難の話だけが伝わっている。 ハイマツの浜辺を抜けて、朝の砂浜へ出ると、 曇天の海の彼方で、水平…

■「悲恋沼」の思い出。

キャンプの朝、オレが「悲恋沼」を散歩していると、 沼の向こう岸にはエゾ鹿親子がいた。 ――おはようございます。声を掛けると、 母鹿は耳をピンと立てて、様子を伺っている。 緊張を解きほぐすように、オレはお辞儀をしてみた。 母鹿はさらに緊張して、耳を…

■我流だけど、いかにも素人くさくはない。

そうありたいと願っている。 プロの方の写真はあきらかに技術の根本が違うから、 スゴイよね。と感嘆する。 しかし如何にもプロ臭い写真でも、それはそれで、 多くはワンパターンで、凡庸ではない写真は稀だ。 いまは誰でもカンタンに奇麗な写真を写せる。 …

■北風が冬を運んで来た。

国道273号から望む大雪山白雲岳・小泉岳方面。

■リド島への帰り道。

オレは水上バス「ヴァポレット」の柵に寄りかかって、 カナルグランデに沈んでゆく夕陽を眺めていた。 行き交うボートは、光の帯を避けるように遠ざかり、 それはやがて水の上を這う蟻のように見えてくる。 空と海の境の島に暮らすヴェネツィアの人々は、 こ…

■ナイタイ高原の秋。

ーー秋が冬に追われていた。 だからそこに留まって、雲の切れ間を15分程待っていた。

■曇り空のウトナイ湖。

ウトナイ湖へ行った時、渡り鳥はまだ来ていなかった。 でもバードサンクチュアリだから、 カラスぐらいはいても良さそうなものだが、 その時は、スズメもカラスも、何もいないのが不思議だった。 湖面はただ低く垂れこめた雲を写している。 そして眺めている…

■朝のカナレージョ運河。

旧市街のホテルの朝は、 路地を清掃するクルマの騒音で目覚めた。 その清掃車が通り過ぎると、申し合わせたように、 軽トラックが止まり、路地の魚屋さんが店開きしていた。 何処からともなく近所の主婦が買いに来て、 サカナは朝のうちに、おおかた売れ切て…

■「時代遅れの酒場」が流れていた頃。

田舎町のそのBARは、港からの坂道の途中にあった。 建物の軋む階段を登った2階のドアを潜ると、 20人は座れそうな、カウンター廻りの広さからして、 以前は、若いバーテンさんとかがいて、 しかしその若者も、きっと都会へいってしまって。 いまでは、ママひ…

■栄啓期図とデ・キリコの不在

ジョルジョ・デ・キリコの作品展を観たのは、 1970年代初めの鎌倉だったような気がする。 学生時代は、多くの美術展に足を向けたが、 なかでも「富岡鉄斎展」と「デ・キリコ展」は、 折にふれて、いまだに、ふと思い起こさせる何かがある。 「富岡鉄斎展」は…

■駆け足の秋。

朝オレは立ち話で隣の先輩に、 ピーマンの後始末をする頃合いを聞いていた。 庭の木々も日々色づいてきたが、 それでも今年は、例年よりも気温が高めに推移している。 何年か前に小旅行で立ち寄った鳥沼公園は、 今頃はこういう感じだった。

■ガラス工房「フンベ」の秋。

工房主人から連絡が入ったので、オレはネギを貰いに行った。 そういえば「野ねずみが自殺している」という連絡があって、 床下の通気口に挟まったままに首吊り状態の、 ねずみを見学してから、工房を訪ねるのは一年振りだ。 ネギ畑の番犬ムサシは、徹底的に…